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東京地方裁判所 平成6年(ワ)13080号 判決

甲事件原告

下山みどり

被告

国領延見子

乙事件原告

大東京火災海上保険株式会社

被告

下山みどり

主文

一  甲事件原告の請求を棄却する。

二  乙事件被告は、乙事件原告に対し、金一七五万六一一〇円及びこれに対する平成六年一〇月二九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  訴訟費用は、甲乙両事件とも甲事件原告・乙事件被告の負担とする。

四  この判決は、第二項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

一  甲事件原告

甲事件被告は、甲事件原告に対し、金三九九万九八二六円及びこれに対する平成五年二月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  乙事件原告

主文第二項同旨

第二事案の概要

本件は、交通事故により負傷したとする者が、加害車両保有者に対し、損害賠償を求め(甲事件)、一方、保険会社が交通事故による負傷の事実はないとして、加害者との対人賠償保険契約及び被害者の夫との傷害保険契約によってそれぞれ給付した保険金の一部を不当利得として返還を求めた(乙事件)事案である。

一  争いのない事実

1  交通事故(以下、「本件事故」という。)の発生

(一) 日時 平成五年二月二五日 午後五時三〇分ころ

(二) 場所 東京都足立区一ツ塚三丁目一九番一一号先T字型交差点(以下、「本件交差点」という。)

(三) 甲事件原告・乙事件被告(以下、「原告下山」という。)車両及び運転者普通乗用自動車(足立五九ゆ八〇九四。以下、「下山車両」という。)

訴外松澤邦彦

(四) 甲事件被告(以下、「被告国領」という。)車両及び運転者普通乗用自動車(足立五二の一三一七。以下、「国領車両」という。)

被告国領

(五) 事故態様 本件交差点において、直進路を直進進行中の下山車両右側側面に、右方突き当たり路から左折進行してきた国領車両の右前面部分が当たった。

2  責任原因(自賠法三条に基づく損害賠償責任)

被告国領は、本件事故当時、国領車両の保有者であり、国領車両を自己のために運行の用に供していたものである。

3  保険金の給付

(一) 乙事件原告(以下、「原告大東京」という。)は、原告下山に対し、被告国領契約にかかる対人賠償保険に基づき、保険金の内金として金一三〇万五八一〇円を支払った。

(二) 原告大東京は、原告下山に対し、原告下山の夫下山信一契約にかかる新年金払交通傷害長期保険契約・家族入院保険金支払特約条項(以下、「本件傷害保険」という。)に基づき、入院保険金として金四六万八〇〇〇円(一日一口九〇〇円のところ、八口の契約があるので、入院六五日分)を支払った。

二  争点

1  甲事件

(一) 原告下山の主張

(1) 原告下山は、本件事故により頭部外傷、むちうち症の傷害を負い、聖コーワ病院に平成五年二月二五日から同年九月一一日まで一九九日間入院し、同病院に同月一三日から同年一〇月二七日まで(実通院日数三〇日)通院した。

(2) 本件事故によって原告下山に生じた損害のうち未てん補のものは次のとおりである。

ア 通院中の治療費 金二万五二二〇円

イ 入院雑費 金二五万八七〇〇円

ウ 休業損害のうち平成五年八月一日から同年九月一一日まで四二日間分 金三五万五九〇六円

ただし、金三〇九万三〇〇〇円(賃金センサス平成四年産業計・企業規模計・学歴計女子労働者の全年齢平均賃金額)×四二日÷三六五日

エ 慰謝料 金三〇〇万円

原告は、本件事故当時妊娠中であったが、本件事故により、右のとおりの入通院を要する傷害を受けたほか、その治療によるX線撮影、投薬により中絶手術を受けることになった。右原告の受けた精神的苦痛に対する慰謝料は右金額を下らない。

オ 弁護士費用 金三六万円

(二) 被告国領の認否及び反論

原告下山の主張のうち、入院及び中絶手術の事実は認めるが、その余は否認する。

本件事故は軽微な接触事故であり、原告下山は負傷していない。また、原告下山の入院及び中絶手術と本件事故との間には因果関係がない。

2  乙事件

(一) 原告大東京の主張

(1) 対人賠償保険関係

本件事故は軽微な接触事故であり、原告下山は負傷していない。ただし、本件事故当日の通院一日分の検査にかかる損害は、本件事故との因果関係が認められるから、支払われた保険金のうち、右通院一日分の損害合計一万二九〇〇円(休業損害一日分四九〇〇円、通院一日にかかる慰謝料八〇〇〇円の合計)を差し引き、一二九万二九一〇円は法律上の原因を欠く給付である。

なお、治療費については、原告大東京から直接聖コーワ病院に四〇六万七五三〇円を支払ったが、原告大東京が認めた本件事故当日の検査費用一万六九七〇円を除き、同病院から返還済みである。

(2) 傷害保険関係

ア 本件傷害保険に基づく入院保険金は、保険約款上、運行中の交通乗用具に搭乗している被保険者が、急激かつ偶然な外来の事故によって傷害を被り、その直接の結果として、平常の業務に従事すること又は平常の生活ができなくなり、かつ、入院した場合に支払われるものとされている。

イ しかし、原告下山は、本件事故によって負傷しておらず、入院は高血圧、慢性腎炎といった既往症(疾病)に由来するものである。よって、右入院保険金を支払うべき場合に該当しない。

ウ ところで、たとえ負傷の事実がなくとも事故当日検査のために通院することは相当であり、本件事故当日の一日分の通院保険金四八〇〇円(一日一口六〇〇円のところ、八口の契約がある)は支払われるべきであるが、右金額を差し引いた四六万三二〇〇円は法律上の原因を欠く給付である。

(二) 原告下山の認否及び主張

(1) (1)及び(2)のうち、(2)アの事実は認め、その余は争う。

(2) 対人賠償保険関係

原告下山が本件事故によって負傷したことは、前記1甲事件(一)原告下山の主張のとおりであり、右主張の損害のほか給付された対人賠償保険金に対応する損害として次の損害を被ったから、右保険金は本件事故の賠償金として正当に支払われたものである。

ア 諸雑費 金七九三〇円

イ 入院付添費及び休業損害

〈1〉 訴外松澤喜久江分 金四五万円

〈2〉 訴外下山信一分 金七五万九三六〇円

ウ 中絶費用 金八万八五二〇円

(3) 傷害保険関係

原告下山が本件事故により負傷し、その直接の結果として、平常の生活ができなくなり、入院を余儀なくされたことは、前記1甲事件(一)原告下山の主張のとおりであり、入院給付金は保険契約に基づき正当に支払われたものである。

3  争点まとめ

甲事件、乙事件とも、原告下山が本件事故によって負傷したか(これによって入院を要したか)どうかが主な争点である。

仮に、本件事故による負傷がなかったとしても、本件事故による検査のためにX線撮影を受けたことと中絶手術との間に因果関係があれば、その手術費用及びその苦痛に対する慰謝料は本件事故と因果関係のある損害ということになり得るから、この点も付随的な争点となる。

第三争点に対する判断

一  本件事故による原告下山の負傷の有無

本件事故によって原告下山が負傷したかどうかについて判断する。

1  本件事故の状況

まず、本件事故の状況について検討すると、証拠(甲一、乙二、三、四の1、2、五、六、一二、一三の1ないし6、一四の1ないし6、一五ないし一九、二一、二二、原告下山本人(第一回)、被告国領本人)によれば、次の事実が認められる。

(一) 本件交差点は、花畑から環七通りに至る車道幅員五・〇メートルの道路に、日光街道からの車道幅員五・五メートルの道路が突き当たる交通整理の行われていないT字路交差点で、いずれの道路とも最高速度は時速三〇キロメートルに制限されていた。

(二) 被告国領は、国領車両を運転し、日光街道方面から花畑方面に進行しようと、本件交差点手前で一時停止の標識にしたがって停止した後発進し、本件交差点を時速約一〇キロメートル前後の速度で左折進行中、花畑方面から環七通り方面に向けて本件交差点を時速約三〇キロメートルで進行してきた下山車両の右後部フェンダー、バンパー付近に、斜めの方向から国領車両の右前角バンパー、フェンダー付近を衝突させた。

(三) 本件事故による下山車両の損傷の程度は、リヤーバンパー右端部に白色塗膜片の付着と擦過傷が見られ、バンパー右サイドの奥部の取付部付近に軽微な変形が認められた程度で、一方、国領車両の損傷の程度もフロントバンパーの右端部がわずかに押し込まれ塗装の剥離が生じた程度であった。

(四) 本件事故後、国領車両は、ほぼその衝突場所の付近で(約〇・六メートル進行後)停止したが、下山車両は直ちに停止せず、約一四・二メートル進行して停止した。

(五) 下山車両には、原告下山が後部座席右に乗車していたほか、運転席に松澤、助手席と後部座席左に女性各一名、後晩座席中央にこども一名の合計五名が乗車していたが、原告下山のほかには本件事故によって治療を要するような負傷を受けたことを訴えた者はいない。

(六) 本件事故直後、被告国領と原告下山らとの間で互いに住所、氏名を確認するなどして別れたが、その際、原告下山からは負傷の訴えは全くなかった。

右認定のような本件事故の態様、とりわけ、本件事故による双方の車両の変形は軽微であること、下山車両がすぐに止まらず約一四・二メートル進行してから停止していること、下山車両の他の同乗者からは治療を要するような負傷の訴えがなかったことに照らすと、本件事故によって原告下山に与えた衝撃の程度は軽微なものであったと窺える。

2  原告下山の治療状況

次に原告下山の治療状況について検討すると、原告下山が本件事故後聖コーワ病院に平成五年二月二五日から同年九月一一日まで一九九日間入院したことは当事者間に争いがなく、証拠(甲二ないし一六、乙一、二〇、三三ないし三六、三八、原告下山本人(第一回))によれば、原告下山は本件事故後一旦自宅に帰ったが、本件事故当日夜、頭重、項部痛、左腕しびれ、嘔気を訴えて入院したこと、平成五年二月二七日にX線撮影を受け、頭部、胸部、腹部には異常なしとされたが、第四、第五頸椎間に椎体のずれがあると診断されたこと(ただし、同年四月二七日にはずれが少し良くなってきたと診断され、さらに同年六月二三日差は大分少なくなったと診断された。)、その後、頭頸部痛、左腕のしびれ等を訴え、退院時まで投薬、静注、点滴、牽引等の治療を受けたことがいずれも認められる。

しかしながら、次に述べるような事情を総合すると、本件事故後の原告下山の症状は本件事故前の私病による症状と区別しがたく、原告下山の本件事故による負傷及びこれによる入院治療の必要性は多分に疑問がある。

(一) まず、平成五年二月二七日にX線撮影を受け、その所見として第四、第五頸椎間に椎体のずれがあると診断されたことについては、乙三六に照らしてそのような診断の正確性には疑問があり、証拠(乙二〇、三三ないし三六、三八、原告下山本人(第一回))によれば、そのほか、原告下山には明らかに外傷によるとみられる他覚的所見はなかったものと認められる。

(二) 次に、証拠(乙二六ないし二八、二九の1ないし3、原告本人(第一回))によれば、原告下山は、平成四年一二月一五日に、急性腎孟腎炎、高血圧症、偏頭痛、急性胃炎、左腕神経痛、左坐骨神経痛等の病名で聖コーワ病院に入院し、本件事故の日である平成五年二月二五日に退院するまで投薬、点滴等の治療を受けているが、その入院治療中にも頭重、頭頸部痛、左半身のしびれ、嘔気等を訴えており、退院の直前まで本件事故後に訴えたのとほぼ変わらない不定愁訴があったことが認められる。

(三) 証拠(乙二五、二六、四五)及び弁論の全趣旨によれば、本件事故後の入院による聖コーワ病院の治療費について、原告大東京から直接聖コーワ病院に対し四〇六万七五三〇円を支払ったが、その後、原告大東京が聖コーワ病院に対し、本件事故による原告下山の負傷はなく、本件事故後の症状は以前の私病によるものと同一であるから、原告大東京には治療費の支払義務がないとして返還を求めたのに対し、同病院は、本件事故後の検査費用一万六九七〇円を除き、返還義務を認めて返還がされていることが認められる。

(四) 乙三四によれば、原告下山は、本件事故のわずか一〇日後の平成五年三月七日に外泊したのを始め、外泊や外出等不在がちであるという傾向が認められ、その療養態度には疑問の余地が多い。

3  検討

右に検討したとおり、本件事故によって原告下山が受けた衝撃の程度は軽微なものであり、原告下山の治療状況に照らしても本件事故後の症状は私病によるものとの疑いが払拭できないから、原告下山が本件事故によって負傷したとの事実は認めがたく、少なくとも原告下山が主張するような損害につながるような負傷があったとは認めがたい。

二  中絶手術との因果関係

以上のとおり、原告下山が本件事故によって負傷したとの事実は認めがたいが、交通事故にあった以上、特に外傷がなくとも、身体に影響がないか病院で検査をすることは相当であると解される。そこで、原告下山が本件事故後妊娠中絶手術を受けたことは当事者間に争いがないところ、原告下山が本件事故による検査のためにX線撮影を受けたことと中絶手術との間に因果関係があるかどうかについて検討する。

1  妊娠時期について

妊娠時期に関する原告下山の供述はやや変遷しているが、本人尋問(第一回)によれば、本件事故で入院してから、一、二か月後に月経がなくなったことから、聖コーワ病院の看護婦に紹介された黒川産婦人科に行き、妊娠三、四か月とわかったが、医師からMRIや放射線を浴びると子どもに異常がないといえないといわれて妊娠中絶をしたといい、本人尋問(第二回)によれば、平成五年四月初め妊娠したと感じ、黒川産婦人科に行き、妊娠何週といわれたという。

しかしながら、証拠(乙三七の1ないし3、三八、三九)によれば、平成五年四月二〇日に原告下山は黒川産婦人科を初めて受診し、最終月経は平成五年三月一〇日から五日間と申告したが、黒川医師により妊娠九週と診断されたことが認められる。

ところで、医師日原弘の意見書(乙三九)が指摘しているとおり、最終月経を基本とすれば、妊娠六週となるから、黒川医師は子宮の大きさを基準として妊娠九週と診断したものと思われるが、証拠(乙三七の1ないし3、三八、三九)によれば、平成五年四月二二日に黒川産婦人科で卵巣嚢腫と診断されていることが認められるから、黒川医師はこの腫瘍を合わせた大きさで判断しているものと推認でき、黒川産婦人科での初診時では妊娠六週であった可能性が高いと思われる。この場合、本件事故後に受けたX線撮影時(平成五年二月二七日)には原告下山は妊娠していなかったことになる。

もっとも、最終月経については原告下山の記憶違いということもないではなく、黒川医師が卵巣の腫瘍を考慮に入れた上でなお妊娠九週と判断している可能性もある。しかし、その場合でも、最終月経は、平成五年二月一七日ころから始まったことになり、月経直後で本件事故前の平成五年二月二二日ころから二四日ころまでの間に妊娠した可能性が考えられるが、このような月経直後の妊娠の確率が低いことは乙三九が指摘するとおりと考えられる。しかも、乙三九によれば、妊娠中のX線照射によって奇形が生じる可能性のあるのは、受精後二週ないし八週で、一定量以上の被爆線量を受けた場合であることが認められるから、仮に妊娠九週であったとしても、妊娠中絶の必要性があったかは疑問である。

2  因果関係

以上に検討したとおり、X線撮影をした平成五年二月二七日時点で妊娠していなかった疑いがあり、仮にその直前に妊娠していたとしても、妊娠中絶の必要性については疑問であるが、妊娠時期の判定は容易ではなく、原告下山がX線撮影時に妊娠していると考えて、それを理由に中絶したなら本件事故と妊娠中絶との因果関係が認められる余地がないではない。

しかし、証拠(乙三七の1ないし3、三八、三九)によれば、原告下山は黒川産婦人科の初診時に直ちに夫の同意書を提出した上、中絶手術を受けており、黒川産婦人科の診療録には交通事故やX線照射に関する何らの記載もないことが認められる。また、聖コーワ病院の診療録等(乙三五ないし三七)にも、原告下山の妊娠やX線撮影の影響等に関する記載がない。

右によれば、原告下山が本件事故後に受けたX線撮影による胎児への影響を心配して妊娠中絶したとするには疑問が多く、他の事情で妊娠中絶をした疑いが払拭できない。

よって、本件事故と原告下山の妊娠中絶との因果関係を肯定するに足りる証拠がないというべきである。

三  結論

1  以上の次第で、本件事故による原告下山の負傷及び本件事故と妊娠中絶との因果関係は認めがたく、せいぜい本件事故後一日程度の検査による通院の必要性を肯定することができるのみであって、この検査のための通院による損害のみが本件事故による損害と認められる。右検査のための通院による原告下山の損害のうち、検査にかかる費用は前述のとおり原告大東京から聖コーワ病院に支払済みであり、一日の通院による原告下山の休業損害と慰謝料は、原告下山が本件事故当日に私病の治療後退院したばかりであったことなどを考慮すると、原告大東京が自認する額を超えるものでなく、これを超えて損害が発生したことを認めるに足りる証拠はない。

2  したがって、本件事故による原告下山の負傷及び本件事故と妊娠中絶との因果関係が認められない以上、甲事件において原告下山が主張する損害はすべて認められないことはもとより、乙事件において原告下山が主張する損害が認められないこととなるから、原告大東京が原告下山に支払った賠償金は、原告大東京が本件事故による損害と認めて乙事件の請求から除外した分を除き、法律上の原因のない利得ということになる。

3  また、原告下山の入院は私病によるものとの疑いがあり、本件事故による負傷を原因とするものとは認められないから、本件傷害保険による入院保険金の支払を受けることができる場合に該当しないことは明らかである。よって、原告大東京が原告下山に支払った入院保険金は、原告大東京が乙事件の請求から除外した分を除き、法律上の原因のない利得ということになる。

4  したがって、甲事件における原告下山の請求はすべて理由がなく、乙事件における原告大東京の請求は、乙事件訴状送達の翌日である平成六年一〇月二九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を求める部分を含めてすべて理由があるから、主文のとおり判決する。

(裁判官 松谷佳樹)

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